国道1号バイパスとJR東海道本線の交わる地点のやや東に位置します。この辺りは昔から地元耕作者の間で塚があることが知られており、畑に石室の一部が露出していました。
昭和40年代、道路及びガス工事のため2度にわたり6基の古墳が調査され、結果、いずれも古墳時代終末の横穴式石室をもつ小円墳であることがわかりました。副葬品として土師器が出土しました。また5号墳からは奈良、平安時代に鋳造された銅銭である神功開宝と隆平永宝が見つかっています。一度葬った後、別の人を葬る追葬の跡も見られ、奈良・平安時代まで墓として使用していたことがわかります。被葬者はこの辺りを支配した有力者であろうと思われます。 現在4号墳のみ石室が保存整備され見ることができます。




伏見久保川のほとりにある小さな祠に赤石地蔵は祀られています。
昔伏見の集落がこの辺りにあったころ、一人の旅僧が民家に一夜の宿を頼みました。その夜どうしたことか、僧はにわかに疫を病み、腹痛と下痢に苦しみ出しました。村人は手厚く看病しましたが、数日後とうとう亡くなってしまいました。僧は忌の際に「私が死んだらこの赤石のほとりに葬ってくれ。誓って疫病から村人を守仏となろう。」と遺言を残しました。村人は哀れみ、僧の遺言どおり手厚く葬り赤石で地蔵を彫りました。その後いつのまにかこの地蔵を削り粉にして飲むと疫病下痢に効くという迷信が生まれ、削り取って行く人が後を断たず、ついに地蔵は石ころとなってしまいました。そこで村人は文政8年(1825)新たに地蔵を刻み、赤石地蔵の石塊は台座の中に納めました。
現在も7月23日は祭日でお供えや掃除が行われ、人々の信仰が受け継がれています。






八幡区の南西端、黄瀬川方面から見て一段高くなった微高地の先端に鎮座しています。主神を応神天皇とし、比売神・神功皇后を祭っています。創建年代については不明ですが、治承4年(1180)、源頼朝が富士川の合戦時にこの地に陣を置きこの時勧請したもの、または湯川の小河泉水神社に鎮座していた八幡神社をここに遷座したものなど様々な説があります。 社宝には徳川家康奉納太刀等多くの寄進があり、将軍家・大名からの信仰が厚かったことが伺えます。

対面石
境内北隅には頼朝と弟義経が対面した時に腰掛けたといわれる対面石があります。もとは現在地より北の国道沿いにありました。ここには幹も種もねじれている「ねじり柿」と呼ばれる柿の木が2本あり、ここにあった館を双柿館と呼んでいたそうです。




三島の楽寿園に湧く小浜池の水を玉川、伏見、八幡、長沢、柿田(後に新宿を加わる)の5ヶ村の灌漑用水として利用するため、伊豆と駿河国境の谷に架けた樋です。この樋が初めて架けられたのはいつの時代か諸説ありますが、応仁(1467-69)のころ既に架設されていたようです。当時樋は木製で長さ39間、幅1間、深さ15寸、高さ1丈5尺ありました。この樋の維持管理費は、それぞれの村が決められた長さの分負担しあいました。
千貫樋の名前の由来は
1.架樋の技術が素晴らしく、銭千貫に値する。
2.この用水が高千貫の田を潤している。
3.架樋費用が銭千貫かかった。
と3説りますが、いずれも樋を賞賛して名付けたものと思われます。
現在の樋はそれまでの木製の樋が関東大震災により崩壊したため、大正3年、鉄筋コンクリート製のものに作り替えたものです。






慶長9年(1604)江戸幕府は、主要な街道沿いに江戸日本橋を起点として1里ごとの道程標識として一里塚を作りました。五間四方の土地に半球状に十尺の土盛をし、頂上に榎などの木を植えたものが標準形とされています。町内には2つあり、東海道を挟み伏見玉井寺(画像上)と宝池寺(画像下)の前に一対をなしています。
宝池寺側のものは昭和60年に作った冬至と同じ寸法で復元されたものですが、玉井寺側の一里塚は樹木におおわれているもので、作られた当初のものといわれています。
これらは、江戸から29里目(113.88km)にあたり、また、宝池寺境内には立場と呼ばれた茶屋があり道ゆく旅人に湯茶のサービスをしていたといわれています。
この一里塚は長沢に残る東海道松並木とともに昔の東海道を偲ぶことができる史跡です。




慶長9年(1604)、江戸幕府二代将軍の徳川秀忠が諸国の街道の大改修を行った際、両側に松や杉を植えさせたと伝えられています。当時の東海道を偲ぶことのできる数少ない史跡です。






泉頭城跡は柿田川湧水が長い年月をかけて侵食し作り出した自然の洞を利用し、ところどころ平坦な部分に木柵を巡らせた曲輪を設けた城郭(画像上)です。いつ頃誰により築造されたか不明ですが、弘治年間(1555-58)頃北条氏により、今川・武田両氏に対する城とせて造られたといわれています。
古文書によると、今川義元の死後武田・北条・今川の和議が崩れ、武田の大軍が駿河へ攻め入りました。この時泉頭城は焼き払われてしまいました。元亀年間(1570-73)になると城の再建が行われ、規模が拡大されました。その後激しい戦いは起こりませんでしたが、天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐に備え三島の山中城に兵を集結させるため、自ら火を放ち廃城となりました。

慶長20年(1615)、徳川家康はこの地を隠居城として選び縄張りをしましたが、元和2年(1616)急死して実行には至りませんでした。現在城跡は、柿田川公園(画像下)として人々に親しまれています。






柿田川公園の一番奥に貴船神社が祀られています。
御祭神・・・高おかみ神(たかおかみのかみ)水を司る神様。降雨、止雨を司り、降った雨を地中に蓄えて適量湧き出させる働きを司る神様。水は万物の命の源であり、水がなければあらゆる生物は命を維持することができません。片時もおろそかにすることができない大切な水を供給する水源の神さまです。
ご利益・・・心願成就・えんむすび・家内安全・商売繁盛など。
由緒沿革・・・この社は、水を司どる神にして、京都市左京区鞍馬に鎮座の貴船神社より御神霊を勧請し、この地に祀った。しかしその年代は詳かでなく、この消息を明かすことの出来る記録は残っていない。里の古老より伝聞されてきたところによると凡そ四百年以前という。
の時代、当所には北条氏康が「泉頭城」を築いているが、生活に欠かせない湧水は神慮によるものと城の一角に祀ったと考えられる。その後、城は焼失し、この辺りの郷も伏見村から清水村と歴史と共に変遷してきたが、住民達は、貴船信仰の高まりとあいまって、この水の神を深く信仰し、湧水の守護神と崇めてきた。近年(昭和六十一年)この地を柿田川公園とするや、神恩に報わんと、時の清水町長関本文義氏が私費を投じ台座を設け、また、平成三年七月同社奉賛会により、新たに社殿並びに手水舎が建設され、現在に至った。(出典:貴船神社奉賛会)




戸倉城は狩野川が大きく迂曲する部分にある標高76.2mの本城山を中心に築かれた城です。戦国時代、北条氏綱が今川氏に対する守りとして築いたものといわれていますが、はっきりしたことはわかっていません。
城といっても壮麗な天守閣を備える城ではなく、木柵を巡らした曲輪や物見台、堀などで構成される戦争用の城であり、山の尾根の地形をうまく利用してこれらを築いています。城将の居館は山の南東、現在の龍泉寺のある辺りにあったといわれています。戸倉城は古文書により武田軍と北条軍の激しい攻防戦があたことが伺えます。たびたびの猛攻にもよく耐え、落城することはなかったようです。最後は天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐に際し、北条氏自ら城を破壊し廃城となりました。




下徳倉の県道沿いに十王堂があります。ここは地区の人々の寄り合い場所としても使われますが、ここの祭壇には中央に地蔵菩薩を安置する厨子があり、その両側に五体づつ木造の十王像が安置されています。十王とは冥界で死者の罪業を裁く十人の裁判官のことで、その十人とは泰広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王です。この思想は平安時代に中国から伝わり、鎌倉時代に大流行し、江戸になると各村々の閻魔堂に像が祀られるようになりました。
十王像はふつう中国宋時代の裁判官の服を着て方形の冠を付け、叱咤する厳しい顔に作られますが、ここの像はとても愛嬌のあるやさしいお顔に見えます。これは、もともと本城山の南裾にあった法久寺に祀ってあった像ですが、この寺が廃寺になったため地元の住民がここに移し祀りました。






徳倉本城山の北側、狩野川が西へ迂曲する南側河岸段丘上一体に広がる面積六万平方メートルの遺跡です。
昭和5年の発見以来多くの研究者により調査されました。その結果弥生時代中期を中心とした土器、石斧、石錘、銅鏃、銅釧、住居跡が発見され、県東部を代表する弥生時代の集落遺跡であることが判明しました。また、最も深い土層からは縄文時代終末頃の土器が発見され、町内の歴史を溯る最も古い資料が得られました。